瞑想・マインドフルネス・癒やし

【実体験】瞑想しようと思った時にやってはいけない9つのこと

10代の後半の時に偶然か必然か瞑想に出逢い、色々な瞑想法を経験。
早いもので瞑想歴は約18年程。瞑想は3度の飯より好き。

どんな分野でも、だいたい1万時間程度継続してそれに取り組んだ人は、その分野のエクスパートになるという「※1万時間の法則」があるが、瞑想に費やした時間は余裕で1万時間を越える。

※1万時間とは毎日3時間休み無く10年間続けると、それくらいのボリューム感になる。

2012年から本格的には2016年から週1,2回週末に湘南藤沢を中心に現代人のためにデザインされた瞑想法であるOshoアクティブ・メディテーション、それと共に最近になって少しずつ分かってきた瞑想というもののエッセンスをシェアしています。

ヒマラヤ遊行庵のブログ | ネパール、マンダラ、メディテーションを通じて「からだ ∞ こころ」の幸せづくりのお手伝い

① 最初から頭の中の雑念を見ようとすること

瞑想というと頭の中に思い浮かぶ想念や雑念を静かに見ること
と教えられるので、その通り目を瞑ってやってみてはいいのですが、
雑念、想念が止めどなく溢れてきてしまって、
収集がつかず静かに気持ち良く座っているのとは程遠い状態に陥ってしまいます。

まず瞑想とは「みること」「観照すること」であると言われますが、
自分の頭の中に起こってくる「雑念、想念をみること」それ自体が瞑想ではありません。

頭の理解だけではちょっと分かりづらい話かもしれませんが、

瞑想とは
「みる側」(主体)、
「みられる側」(客体)、
そして「みること」(主体と客体を越えて、間にあるもの)が一体になった状態だと
わたしはそのように理解しています。

瞑想でフォーカスをするのは「みている側」である主体、
そして「みること」(主体と客体を越えて、その間に動いている現在進行系の動き、エネルギーとでもいいましょうか)であって、「みられる側」である自分の頭の中に起こってくる雑念、想念にフォーカスをしていたら、止めどなく起こってくる雑念、想念の洪水に飲み込まれてしまうでしょう。

大切なのは「みられる側」にフォーカスが移ってしまったとしても、フォーカスするのは自分の頭の中という部分的な雑念、想念ではなくて、
その雑念、想念を「みている」自分自身。

この辺りは「習うより慣れろ。」で実際に何度もやってみて、
体感的に分かってくる部分なので、コツが掴めるまで何度もやってみましょう!

自然にこの感触を容易に体感できる機会を与えてくれる
現代人のためにデザインされた瞑想法もあります。
それらの瞑想法についてはまた別の記事で紹介させていただきますね!

② 努力して修行か苦行のように瞑想してしまうこと

瞑想することはとても楽しいことであり、とっても気持ちいいことです。

最新の脳科学でも瞑想中の脳波の動きが解明されてきており、瞑想をすることで大雑把にまとめると、やる気をアップさせるドーパミン、幸福感を感じるセロトニン、脳内麻薬、快感を感じるβ-エンドルフィンなどの脳内物質が活発になるとの報告がされています。

誤った瞑想の苦行や修行のようなイメージは捨てて、気持ちよく瞑想することを只々楽しみましょう!

③ 仕事や他の目標のように何かを達成しようと頑張って瞑想してしまうこと

これも瞑想を始めようと思った人に良くありがちな傾向なのですが、基本的に瞑想とは本当に何もしないことを究極まで突き詰めていくことであって、
Doing(すること)ではなく、Being(あること)のスペースに入っていくことです。

何か目標を建てて達成するという外側の世界とは真逆な世界なので、
瞑想をすることから何かを得ようとすればする程、何も得ることが出来ないと感じることでしょう。もっと言ってしまえば、「瞑想をする」ということは出来ません。

私たちができるのは瞑想法をおこなって、心身と魂の準備をすることで本当の「瞑想」が起こるのをただ待つだけです。
究極的に言ってしまえば、「瞑想」というものを頑張って、努力してすることは出来ません。なぜなら「瞑想」というものは起こるものだからです。これも「習うより慣れろ。」で、長年瞑想を経験してくるとこの事が体感としての理解することになるでしょう。

またこの自然と容易に瞑想が起こるように、身体をシェイクしたり、ダンスしたり
身体を動かす事からまず始める現代人のためにデザインされた瞑想法は「瞑想は起こることである。」という理解を助けてくれるでしょう。

本当に瞑想が自然と起こるには心身と魂の浄化と準備が必要です。現代人のためにデザインされた瞑想法であるOshoアクティブ・メディテーションはこの心身と魂の浄化と準備にも最適な瞑想法だと18年間色々な瞑想法を試した身として強く感じます。

④ 素晴らしい体験や美しい体験を求めて、
瞑想をしてしまうこと

これは瞑想を始めようとしている人だけでなく、瞑想をある程度経験した人も本当によく陥りやすいパターンの一つです。

確かに瞑想をしていると、その副産物として様々な至高・至福体験をすることがあります。
そしてそれが素晴らしく、美しい体験なのでもう一度それを体験することを目的に瞑想をやり始めてしまうという陥るがちなパターンに嵌ってしまいます。

ただ体験というものは、どんなに素晴らしく、美しくても
それは瞑想の本質ではなくて、その体験もまた景色の一部、
「みられる側」(客体)として移り変わり、来ては去っていく対象物です。
移り変わっていかないものそれが本質です。

それが内側の至高体験や悟りであっても、何かを得るために瞑想するのではなくて
瞑想そのものが目的なのです。

道元禅師は言いました。
「悟りを求めて坐禅をするのではない」とは、「坐禅そのものが悟りである」
このシンプルな言葉がすべてを簡潔に表わしていると思います。

⑤ いまここに存在している自分の身体や呼吸ではなく、
頭の中を観察して瞑想した気になってしまうこと

これは①と共通している部分ですが、
「瞑想や座禅は頭の中の雑念をみること」という誤ったイメージや固定観念から、
一生懸命アクロバティックに雑念や思考に囚われないように、主体である「みること」にフォーカスしようと頑張りますが、
どう頑張っても過去、未来の範疇にある雑念、想念に絡み取られてしまいます。
いくら雑念や想念と格闘して、主体である「みること」にフォーカスしても
雑念や想念は「いまここ」ではない「過去や未来」に属していて、
「いまここ」で起こっているリアルなものではないので、
暖簾に腕押し、なかなか瞑想の手応えを感じるには難しいでしょう。

それよりは「いまここ」でリアルに起こっていて五感で感知できるものに
フォーカスした方が、容易に瞑想に入っていくことが出来るでしょう。
「いまここで起こっている」自分の身体感覚、呼吸感覚、日光から感じる暖かさ、聞こえてくる音、
これらはすべて過去や未来にあった雑念、想念とは異なり、「いまここ」で実際に起きている感覚です。
これらの感覚にフォーカスした方が「いまここ」というスペースに「ただ在る」という事を容易にしてくれるでしょう。

⑥ 自分に合わない瞑想法を用いていつまでも瞑想を続けてしまうこと

これも良くあることで、私自身もそうだったのですが、
瞑想というものは伝統的な手法で静かに座って、プラーナやチャクラを活性化させてサマーディーに至るものだという
ヨーガ哲学やヨーガの伝統に沿った体系だったり、手法が自分にとって最適であり、優れていると瞑想に出逢ってから数年間は信じていましたから、
その瞑想法が自分にとって合わない瞑想法でも、教義・哲学体系からどっぷりと学んでいるため、なかなか他の瞑想法を気軽に試してみるということが当時の自分は出来なくなってました。

瞑想法、瞑想テクニックというのは教義体系や哲学体系とは違って、
純粋に技術、テクニックですから、信仰等とは一切関係なく、
その人の霊的成長具合やタイミングによって、その人に必要で最適な瞑想法が変わっていくものだと思います。

わたしの場合、伝統的な静かに座る小乗仏教の瞑想法、インドヨーガ哲学に基づいたプラーナに働きかけるクリヤ・ヨガなど
宗派が異なる伝統的な静かに座る系の瞑想法から始めました。
当時まだ19歳、20歳という若い年齢で、静かに座る瞑想法ばかり長時間やっていくことに自分の中でバランスがあんまり良くないなと漠然とながら感じていて、
無意識ながら他の瞑想法は無いのかなと探しいたところ、現代人の為にデザインされたOshoアクティブ・メディテーションなるものがあることを知りました。

このアクティブ・メディテーションは現代の神秘家であり、覚者であるOshoによってストレスが多い現代人のためにデザインされた瞑想法です。

詳しいわたしの瞑想遍歴について興味がある方は下記をご覧ください。
https://spacenowhere.com/blog/spaceosho/5592/

この瞑想法を体験して、アクティブ・メディテーションが自分には必要で最適だと強く感じたので、それからはこのアクティブ・メディテーションを今迄早いもので、約17、18年間続けていることになります。

それなので、瞑想法やメディテーション・テクニックは沢山あるので、色々と試してみて自分に最適なものを選びましょう。

⑦想像・妄想(イマジネーション)や明確に映像を思い描くこと(ビジュアライゼーション)が瞑想とイコールと捉えてしまっていること

瞑想というものは基本的に何かをしたり、何かを思い描いたり、想像したり、do「すること」ではありません。もう一度言いますが、瞑想とはhappen「起こること」であり、be「あること」だからです。
しいて言うのであれば、何もせず自分の内側そして外側で起こっていることを只々「見守ること」です。
強く何かをイメージしたり、念じたり、ビジュアライズすることではありません。
何かを念じたり、マントラを唱えたり、ビジュアライズするというテクニックもありますが、それは瞑想というものの本質ではありません。

⑧何かの対象を信仰、信じること、崇拝、崇めることが瞑想の事だと捉えてしまっていること

瞑想とは何かの対象を「信仰」ではありませんし、「信じること」「崇拝」「崇める」ことでもありません。瞑想とは「神」や「教祖」や「グル」や先生を信仰したり、信じたり、崇拝したり、崇める事ではなく、もっとクールで冷徹で論理的であり科学的なものなのです。(何を論理的で科学的かというのは議論の余地がありますが。。何故なら論理や科学も純粋に究極的に分析していくと、科学、論理と言われてますが絶対的唯一正しいものではなく、相対的なものである可能性が見えてくるかもしれないからです。)

瞑想とは自分の内側という実験室で起こっていることを、只々観察しているという感じにより近く、そしてその観察者を距離を持ってメタ的に観察している観察者に焦点を合わせていくことであり、その観察者そのものであるからです。

⑨瞑想法が瞑想の事だと捉えてしまっていること

この部分も非常に大切な所ですが、世間で言われている「マインドフルネス」や「ヴィパッサナー瞑想」その他色々な瞑想法やストレスの多い現代人のためにデザインされた瞑想法は「瞑想」、「瞑想状態」に至るためのテクニックやツールであって、「瞑想」そのものではありません。

この記事でも何度も「瞑想」というものはdo「すること」ができないもので、happen「起こること」であり、be「ただあること」だとお伝えしましたが、瞑想法やテクニックはその状態が自然に起こる準備をしていくものだと私は理解しています。
「瞑想」にある状態というのは、空に太陽がありそこから光が燦々と注いでいて、そしてその光の輝きや暖かさに只々幸福感が満ち溢れるという極々当たり前で自然の状態だと思ってます。

しかし人間は様々な事が原因で不自然になり過ぎてしまい、その当たり前の太陽からの恵み、恩寵を全く感じることが出来ない程に自分の体と心の周りに将来への不安や怖れ、過去に対するわだかまりや罪悪感等の思い込みや雑念というものを付着させているものですから、その自然で当たり前の一人一人の誰もが本来持っている輝き、至福感、慈愛、存在(サムシング・グレート)との一体感、遊び心に氣づいて、寛ぐことが出来ません。

その自然で当たり前の本来の自分を思い出すことを手助けしてくる最適な手段、ツールが瞑想だとわたしは理解しています。

  1. 最初から頭の中の雑念を見ようとすること
  2. 努力して修行か苦行のように瞑想してしまうこと
  3. 仕事や他の目標のように何かを達成しようと頑張って瞑想してしまうこと
  4. 素晴らしい体験や美しい体験を求めて、瞑想をしてしまうこと
  5. いまここに存在している自分の身体や呼吸ではなく、頭の中を観察して瞑想した気になってしまうこと
  6. 自分に合わない瞑想法を用いていつまでも瞑想を続けてしまうこと
  7. 想像・妄想(イマジネーション)や明確に映像を思い描くこと(ビジュアライゼーション)が瞑想とイコールと捉えてしまっていること
  8. 何かの対象を信仰、信じること、崇拝、崇めることが瞑想の事だと捉えてしまっていること
  9. 瞑想法が瞑想の事だと捉えてしまっていること